
主任ケアマネジャーの更新研修を受けている。認知症について講義が進む。スライドには「認知症の人」という言葉が並び、その先に「BPSD(行動・心理症状)」という項目が続く。かつては「問題行動」と呼ばれていたものが、今はこの名前で呼ばれている。呼び名は変わった。構造は変わっていない。
そこに、ずっと違和感があった。
状態が、人より先に来る
言葉には順序がある。「この人が認知症の状態にある」と語るか、「認知症の人」と語るかは、同じ事実を指していても、意味が違う。前者では、人がまずあり、状態はその人に起きている出来事である。後者では、状態がまずあり、人はその状態の器になる。
主語の座を、人ではなく状態が占める。この転倒が起きた瞬間、その人の言動はすべて「認知症だから」というフィルターを通して解釈されるようになる。何かを訴えても、何かに怒っても、それはその人固有の理由からではなく、症状として処理される。
これは好みの問題でも、言葉遣いの丁寧さの問題でもない。誰を主語にして世界を見るか、という構えの問題である。
中核症状と、その先にあるもの
認知症は、原因疾患によって脳機能が低下し、今までできていたことができなくなっていく状態を指す。記憶障害、見当識障害、実行機能障害。これが中核症状と呼ばれるものである。
ここに支援が届かなければ、何が起きるか。今どこにいるかわからない。何をしようとしていたか見失う。最後までやり遂げられない。そこに生まれるのは、不安であり、混乱である。それを外側から見た者が、行動として捉え、名前をつける。BPSD。行動・心理症状。
だが、この反応は、認知症の状態にあるかどうかに関係なく、人間として当然のものではないか。誰であれ、自分の置かれた状況が理解できず、支援も届かないまま孤立すれば、混乱し、抵抗し、時に怒る。それを「症状」と名付けた瞬間、原因の在り処が、本人の外側から内側へと、静かに移される。
支援の不足が、本人の疾患に置き換わる。
名前は、介入の場所を決める
専門職の仕事は、本来、中核症状によって生まれる混乱や不安そのものにアプローチすることであるはずだ。見当識障害で不安になっているなら、その不安の手前にある「わからなさ」に届くこと。実行機能障害でやり遂げられないなら、そのもどかしさに寄り添うこと。それが専門性のはずである。
しかし、BPSDという名前がある限り、専門職は「その名前がついた対象」に向かって仕事をする。行動が起きた後に、行動そのものへの対処法を学ぶ。それは対症療法であって、原因療法ではない。名前が、介入すべき場所を、発生源から結果へとずらしてしまう。
多くの現場で、対処法を学ぶことが専門性だと思われている。だが対処法とは、背景を探る手続きを省略した先にあるものだ。
研修という場で、それは正しいことにされる
この講義は、主任ケアマネジャーの更新研修という、公式の場で行われている。主任ケアマネは、他のケアマネジャーを指導し、スーパーバイズする立場にある。ここで受け取った言葉の型は、そのまま現場に持ち帰られ、また次の誰かに伝えられていく。
講師がこの構造に自覚的であるかどうかは、わからない。もし無自覚であるなら、その講師自身が、批判しているはずの現象――言葉が人を状態化するという現象――を、体現しながら教えていることになる。批判すべき対象を、無自覚に再生産している。
そしてそれを受講者は、公式の場所で「学ぶ」。正しいものとして。
それでも、名前を否定はしない
ここで一つ、立ち止まっておきたい。BPSDという用語そのものが、原因を疾患の内側に閉じ込めているとは限らない。教科書的には、内的要因と環境要因の相互作用として説明されることも多い。用語の設計そのものが誤っているのではなく、その用語が独り歩きし、背景を探る手続きが省略された教え方をされていることが、問題の所在なのだと思う。
型を否定することは簡単だ。だが型が生まれた理由には、たいてい実務上の必要がある。多人数に、限られた時間で、標準化された知識を届けるには、個別の文脈を削ぎ落とさざるを得ない場面もある。責めるべきは型そのものではなく、型しか渡されていないという、その一点だ。
裁かない目を、ここでも
以前、別のところで考えたことがある。愚かさを裁かないことが、ケアの本質ではないか、と。わかっていながら道を外れる人間を、それでも同じ地平に立って見ること。
今回の話は、その裏返しでもある。ラベリングとは、裁く前に、裁く対象をあらかじめ用意しておく行為だ。「BPSD」と名付けた時点で、その人の行動はすでに、探るまでもなく理解済みのものとして扱われてしまう。本当は、そこにこそ、一人ひとり違う背景があるはずなのに。
裁かないためには、まず、名付けで終わらせないことが要る。
この違和感を、どこに置くか
この研修の中で、少しだけ言葉にしてみるつもりだ。用語の是非を問うためではない。専門性の定義を、もう一度確認するために。
BPSDへの対応を学ぶ前に、それが中核症状に由来する不安や混乱への反応であるなら、我々が本来アプローチすべきは、行動そのものより、その手前にある、満たされていないニーズではないか。行動への対処法だけを学ぶと、原因を探る手続きが省略されたまま、現場に持ち帰られてしまうのではないか。
そう問うことは、対立ではなく、確認である。
言葉が人を状態化する。その現象に名前をつけられるようになったのは、この一連の違和感を、最後まで手放さずにいたからだ。手触りのないまま流れていく言葉に、もう一度、輪郭を与えること。それが、この記録の役目だと思っている。
2026年8月31日